2009/04/17

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-3(最終回)

Olive Project show at al-Hoash in Jerusalem

オリーヴの苗が届く、そして再びパレスチナ

 エルサレムに戻る朝、アンタルはカランディア(エルサレム・ラマッラ間の検問所)で時間がかかっていると電話してきたが、ほどなく現れた。若い美術家を支援しているカッターン基金から、受賞候補となった作家の作品を纏めたカタログが3冊(隔年なので6年分)贈られ、他の書籍も合わせると7キロか8キロだろうか、東京に送ることにしたので、ヴェラはアンタルに輸送会社の場所を説明する。別れの挨拶、ハグとキスをヴェラと交わし、助手席に乗り込むと「その輸送会社を使うの?オリーヴを送るのも」と、アンタルが訊く。「ラマッラ滞在中も輸送会社をあたってみるんだよ、わかった?」と言って、彼はエルサレムに戻ったのだった。「解決したのよ」と、ヴェラがPARCを紹介してくれたこと、その所長がアルアマルを知っていて直接話し、東京への輸出業務を引き受けてくれたことなど伝えた。「それはよかった」とアンタル、彼は笑うことがない、でも安堵は伝わってくる。7キロか8キロと見積もった書籍類は12キロあった。

 2007年2月2日、わたしはアンタルのワゴンでヨルダンとのボーダー、ヨルダン川にかかるアレンビー橋に向かった。軍事占領下、出入国オフィスを管理するのはイスラエル軍、パスポートをチェックするのはイスラエル兵である。オリーヴの苗木100株を、持ち帰ることも考えたが、没収されずに出国できる確信はなかった。デモに対してイスラエル軍が撃ち込む催涙ガス弾が足下に転がった場合、それを拾ってイスラエル軍に投げ返すことも「暴力」として催涙ガスにむせ返ることを選ぶ非暴力国際連帯組織ISMをも「テロ組織」指定するイスラエル政府にとっては、わたしもまた「テロリスト」に違いない。
 5日にアンマンを発ちパリ経由で6日に東京に戻ったが、3月にはビルゼイト大学美術館で、4月にはエルサレム、アルホウシュ画廊で「オリーヴ・プロジェクト」展の開催が決まっていたから、東京滞在も1ヶ月ほど、荷を解くつもりもなかったが時間もなかった。
 オリーヴ発送を知らせるメールがサリームから届いたのが12日、わたしは(あたかも輸出手数料を支払ってでもいるかのように)トラッキングしたいから輸送会社とシリアル・ナンバーを知らせて欲しいと書き送った。代理店から送らせるのに手間取ったのかもしれない、18日に送り状をスキャンしたPDFファイルが転送されてきたが、トラッキングする前に、2月19日、オリーヴの苗木100株は成田に到着した。

 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展オープニング、3月14日は朝から土砂降りの雨だった。大学美術館でヴェラとオープニングの準備をしながら「誰か来るかしら?こんな雨の日、わたしだったら展覧会になど行かない」と言うと「ラマッラ農業協同組合からオリーヴの苗が贈呈されることになっているの、ユニオンのメンバーが出席するわ、でも植樹式は無理ね」と彼女。パレスチナ在住の出品者も少なくなかったから(新たにラマッラの作家とパレスチナ在住のスエーデン水彩画家が加わった)、出品者は出席するに違いない。「サリームも来るのよ、この展覧会はPARCの支援を受けているの」、ヴェラのことば通り彼はやって来てオープニングで「あいさつ」した。雨は激しさを増すばかりだったのに、会場は人びとであふれた。「感謝のしるし、土産があるの」、サリームのオフィスを翌日、10時に訪ねることにする。

 翌朝目覚めると雨は湿った雪に変わっていた。ラマッラ、ラムは高地、アッラーは神の意、「神宿る高地」、一説では「神に導かれた民が住まう高地」、ラマッラでもオリーヴは育つのだから信州でも育ってくれるに違いないと思えるほど寒かった。携帯電話が鳴って「雪だよ、雪」と声の主、「エルサレムも雪なの?ラマッラは雪だけど」とわたし。エルサレムに行ったなら、この友人宅に、数日か1週間、仲違いしなければ10日ほど滞在することになっていた。
 晴れているならPARCは歩いて行ける距離だが、滑りそうでタクシーを使う。
 オープニングへの出席と展覧会への支援、そして何よりオリーヴ輸出の労を感謝する。「展覧会支援はわたしたちの義務」とサリーム。用意した土産は揃いのマウスパッドとアームレスト、DVDケース、(わたしの問い合わせに答えるばかりでなく、アルアマルの準備状況や、発送後のベングリオン空港での調査のことまで、必要な情報をすべて知らせてもらっていた)あまりにコンピュータに向かわせすぎたと感じていた。そして夫人に日本の組紐、帯締め、「ピュア・シルクよ、ベルトに使うの」と言うと「知ってる、ニッポンに行った時の妻への土産はキモノだったから」。
「オリーヴの輸出でおかけした手数への返礼に、わたしにできることがあるならどんなことも厭わない」と言うと「ニッポンにはオリーヴオイルを輸出していますから、わたしたちの希望は、やはり、ニッポンでの消費拡大です」と、予測した返事、「努めてみます」と応じる。輸送明細書と送り状、残金を受け取る時に、サリームがヴェラに渡した2,000ドルの預かり証を回収しなかったことに気づく。「構いません、ヴェラに廃棄するよう伝えてください」。

 このようにして、パレスチナのオリーヴの苗木100株の輸出に関する全行程を終えた。
 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展が終わり、エルサレムのアルホウシュ画廊に展示して、そのオープニングが4月5日、東エルサレムYMCAからエルファムも出席した。
 イースターの季節、エルサレムのいたるところ、観光客で溢れていた。そんなエルサレムを、4月7日、あとにする。やはりアンタルのワゴンで、しかしワゴンには満杯の観光客、もはや独占とはいかなかった。ひとつ残っていた座席に滑り込むと、隣にフィリピンからやって来た夫婦と後ろの座席に成人に達した子どもたち。ともかくも太平洋戦争を詫びる。侵略国のパスポートを持つ身、肩身は狭い、が、互いの所属の国が明らかになった以上、何事もなかったように話しだすわけにはいかない。「もう過去のことですから」と言ってもらえるが、彼らにとっても、そう言うよりほかないのだ。
 
 オルター・トレード・ジャパンが輸入するPARCのオリーヴオイルは月桂樹の香りがする。わたしは1ダースづつ注文する。個人的な嗜好で、オイルの消費量はきわめて少ないから、贈り物に使う。これで、サリームと約束した「ニッポンでの消費拡大」に努めていることになるだろうかと、時々考える。少なくても、パレスチナのオリーヴの苗木を希望した美術館の、アネックス・ギャラリーが併設するカフェではPARCのオリーヴ・オイルを使っている。信州の、読書館が併設するレストランではどうだろうと、考えている。(おわり)

 PARCのオリーヴオイルの注文はこちら:オルター・トレード・ジャパン

2009/04/16

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-2


The Ethnographic and Art Museum at Birzeit University

輸出、ラマッラから東京に---ヴェラとサリーム

 アンタルの運転するワゴンで、エルサレムから北に15キロほど、ラマッラのヴェラ宅にやってきた。「歓迎する」と招待を受けたのだ。
「オリーヴ・プロジェクト」展出品者でもあるヴェラ・タマリは、2002年のイスラエル軍ラマッラ侵攻で、戦車により破壊され通りに放置された車を集めた(移動の自由を保証する筈の車の、移動の不可能性---占領を表現する)野外インスタレーションを試みたが、その会場にイスラエル軍のブルドーザが訪ねてきて作品に襲いかかり、作品の隠喩を暴露してみせたのでインターネットをにぎわせた。ビルゼイト大学美術科教授であり、大学美術・博物館の館長でもある。
 大学に向かう車中、パレスチナのオリーヴを植栽したいという日本の美術館の情熱(その美術館のアネックス・ギャラリーが「オリーヴ・プロジェクト」展のホストだったの、と)、アンタルの案内でオリーヴの苗木を100株カルキリヤで求めたこと、東京への輸送が懸案となっていることなど話した。
「アンタルという名のひとに会ったの初めて。知ってる?アンタル」とヴェラ、「知ってる、古い冒険物語のヒーローでしょ」「そう、でも昨今、アンタルと名付けることはないの。どんな物語か覚えていないけど」「結婚の条件に、珍しいラクダを要求されたのじゃない?その部分しか思い出さないけど。何といったかしら、ヒロイン」「アブラ」とこれはヴェラが思い出した。そう、アンタルとアブラだ。

 ビルゼイト大学で過ごしているとき、農水省は「許可証」を発行しない、輸出国農業省の「証明書」が必要、との知らせが東京から届く。パレスチナの運輸会社が馴染んでいる欧米への輸出システムとは違うらしい。輸出国というのは「イスラエル」だろうか、あるいは「パレスチナ自治政府」の農業省なのか、悩ましかった。
 夕刻、大学から戻ると「紹介できるひとがいるわ、彼ならオリーヴを東京に送るのを手伝える、パーク(PARC:パレスチナ農業振興委員会)のサリーム・アブガザーリよ、電話してみるわね」と、ヴェラは住所録を開く。翌日、PARCを訪ねることになったが、わたしひとり、彼女は大学がある。

 サリームのオフィスには先客がいて、「どうぞ」と机の前の椅子をわたしにあけ渡し、壁際の椅子に移る。サリームは忙しいらしく立っていた。「コーヒー?紅茶?」「紅茶、砂糖入りで」名刺を交換しながら、彼は開いたままの扉から叫んで紅茶を注文する。その僅かな隙にわたしは名刺から「所長」の文字だけ確認する。
「オリーヴの苗木を東京に送るとか、現在の状況は?」「カルキリヤのアルアマル、アルアマルはろうのひとたちの職業創出を事業としているのですが(ええ、知っていますと、サリーム)何しろ100株ですから準備中です。ニッポン農水省の許可証が必要とのことでしたが、農水省によれば許可証は発行しないと」「ええ、ニッポンの農水省は許可証を発行しません。パレスチナ農業省の証明書が添付されることになります。検疫に必要で」。要領を得なかった農水省の言い分が明確になる。彼がニッポンへの輸出を熟知していることは疑いない。パレスチナ農業省の証明書ならば問題もない。
 PARCはニッポンにもオリーヴオイルを輸出しているという。手渡されたリーフレットには取り引きのある外国の企業というよりはNGOと思しきリストが掲載されていた。サリームは、日本の輸入元、Alter Trade Japanを指差す。
「分量は100株、価格は?」「500ドル」「品質は?」「3年ものと4年もの」「PARCが輸出を引き受けましょう、PARCの荷物ということで、手数料なしで(「ただで」と言ったのだった)」「感謝します」。これもヴェラの紹介があったからなのだ。実は期待していた訳ではなかったが、懸案は猛烈なスピードで解決に向かっていた。PARCの所長は忙しい、何度かかかってくる電話で中断され、スタッフが書類への署名を求めてやってくる。その合間合間に、大急ぎでわたしたちは話していた。
「必要な書類を言いますから、アルアマルに伝えてください」「電話しますが直接話してくださる?ワリード(アルアマル所長)は英語を話しませんから」とわたしは携帯電話を取り出す。「構いません」ワリードの携帯電話につないで「ちょっと待って」とすぐサリームに手渡す。彼が発する、わたしも理解する「ムシモシュケレ(問題ない)」「タイーブ(いいでしょう)」などから展開は上首尾とわかる。アラビア語だったにも拘らず、パレスチナ農業省の証明書はPARC宛でと言ったのがわかったのは、既に英語で聞いていたからに違いない。「彼は会議があって明日ラマッラに来るそうです。ここに寄ってもらうことになりました。輸送はPARCが依頼している代理店を使いましょう。輸送料はいくらになるか判りませんから2,000ドル、ヴェラに預けておいてください。送り先はメールで(これは手書きの判読を避けるため)」、必要にして充分、彼のことばに無駄はない。これで懸案は片付いたのだった。彼が忙しいのだから長居は無用、「そうします、3月にまたまいりますから、ベツレヘムで開催中の展覧会がビルゼイト大学美術館でも開催されますので、足りなければその時に」と、金銭的な心配は無用とのメッセージを残す。「感謝します」、そしてタクシーを呼んでもらう。

(つづく)

2009/04/15

ニダル・エルハイリー

 今朝、イエメン・タイムスに掲載された、閃きの政治漫画家、『若いパレスチナ・アーティストの横顔』を読んでいて、彼の作品を観てみたいと思い、彼の名で検索をかけると、彼のサイトがありました(表題『ニダル・エルハイリー』をクリック)。すぐ、観たことのある作品と気づきました。2004年3月、銀座の画廊で開催した第5回「占領に反対する芸術」展の出品者のひとり、わたしが展示した作品の、作家の名前を忘れていたのでした。いずれにしろ、名前を覚えるのはニッポンジンでも苦手、でも作品なら記憶に残ります(幸い)。彼と会ったのはモントリオール、そして現在はアンマンに住んでいます。
「あなたを再び見いだして嬉しい。いつ、アンマンに移ったの?」とメールすると、「僕のとなりに、トルコ・コーヒーの入った大きなカップとあなたからのメール、なんて素敵な朝なんだ」と返信が届きました。う〜ん、パレスチナの男たちは常に素敵、いえ、彼の2倍近い人生を過ごしましたから、こころときめくというのではありませんが、幼少時から年長者を真似て「口説き文句」をコレクションしているパレスチナの少年たちが思い浮かびます。7歳は大げさとしても、13歳ならもう「口説き文句」を試し始める、この国の男たちとは、多分、違って。

2009/04/14

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-1



Olive Project show at the International Center of Bethlehem

オリーヴの苗を100株、カルキリヤで---アンタル

 第1回(2006年5月)が、東京のアート・ホールで開催された「オリーヴ・プロジェクト」展は、新たにカナダ作家の参加を得てベツレヘム国際センターで開催中だった。この展覧会のキュレーターとして(出品者でもあるが)展示のため、わたしはパレスチナに滞在していた。
 東エルサレムYMCAから、イスラエル軍によって引き抜かれたオリーヴの再植樹を促す「オリーヴの樹キャンペーン」への協力要請を受け、Artists Against Occupation (AAO/占領に反対する芸術家たち)10人ほどが、各国(カナダ、フランス、日本、アメリカ)からパレスチナに集まったのが2004年10月、ベツレヘム、カルキリヤ、ナザレなどでオリーヴを取材した。この取材から生まれた作品で構成される展覧会が世界各地で開催され「キャンペーン」が知られ、植樹への寄付が集まることをYMCAは期待していたが、東京での第1回展まで既に1年半が経過していた。第2回展となったベツレヘム国際センターでのオープニングは、2007年1月25日。ベルファストから、遅れてオリーヴ取材に訪れたAAOメンバー、リチャードとクリスティンもこのオープニングに出席した。

 オープニングを終えてエルサレムホテルに移ったわたしは、このホテルの観光部門、オルタナティヴ・ツアーのドライバー、アンタルとオリーヴの苗を求めてカルキリヤに向かった。
 ヨルダン川西岸はガザ回廊と並んで、1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争によりパレスチナに残された領域(実際には中東戦争の結果として、西岸はヨルダンに、ガザはエジプトに併合された)、あるいは1967年の第三次中東戦争以来、イスラエルの軍事占領を受ける領域をあらわす呼称となった。その西岸北西部、エルサレムから直線距離で50キロほどにカルキリヤは位置する。信州に植栽されるのだから北のオリーヴを手に入れようと考えてはいたものの、アンタルには別の目論見があって「個人の店で買ってもそのひとの懐を潤すだけ、でもアルアマルで買うなら利益はすべて聴覚障害者の支援に使われるんだ」と、75キロほどだろうか(イスラエル・ナンバープレートのワゴンで、西岸の道路封鎖や検問所を避け、イスラエルのハイウェイを使う)遠出の意義を力説する。「ぼくの寝室もアルアマルの木工所の家具で設えたんだ」と。
 アルアマルの圃場に着くとシートベルトを外しながら「苗木1株、いくらと考えている?」とアンタルが訊く、「5ドル」とわたし。3年もの1株3ドル(日本で買うなら30ドルは下らない)、それに土を洗い落として(土付きでは輸入できない)水をしみ込ませたボロで包む手数料を含めた金額である。アンタルは交渉を担おうと考えているらしい、何しろここに案内したのは彼なのだから。
「1株あたり5ドルでいかがですか?」とアルアマルの所長、ワリード。妥当な金額だから値切らない。「いいわ、苗木は3年もの、土を洗い落とすのも水をしみ込ませた布で包むのもすべて含めて」「ええ、苗木は3年ものと4年もの(3年ものだけでは100株揃わないらしい)、段ボール箱に梱包して輸出の段取りまですべてこちらで。どちらの運送会社を使いますか?」とアルアマル。布ではなく土の変わりにピートモスをビニールポットにつめて水を含ませるという。交渉成立、圃場から街中のオフィスに移動する途中、アルアマルの作業所、木工所とアルミサッシュ工場に立ち寄る。アラビア語で交渉していたアンタルもさすがに手話の心得まではなく、木工所で戸棚を作っていた聴覚障害のふたりの青年たちとの会話は不可能だった。オフィスで甘い紅茶を飲みながら、500ドルの領収証を受け取る。輸出にあたって、ニッポン農水省の許可証が必要とのことだった。エルサレムに戻る車中「あしたの朝、運輸会社をいくつかあたった方がいいね、アラメックスとDHLと他にも」とアンタル。

 翌日は日曜だったが東エルサレムの殆どは営業している。アラメックスとDHLをまわり成田への輸送料を訊ねる。支店長はアルアマルに電話して、段ボール箱の容量を確認すると計算機を叩く。2,500ドル、オリーヴの代金と合わせて3,000ドル、ニッポンで買うのと変わりないなら高くはない。何より(当時)建設途上の読書館の庭に植栽するオリーヴは、パレスチナのものでなければならないというのだから。どの支店も、植物の輸出にはニッポン農水省の許可証が必要と口をそろえる。
 東京の美術館出版部門に電話して、農水省に植物輸入の「許可証」なるものについて問い合わせるよう依頼する。明日は月曜だから農水省も「営業日」だし、と。

(つづく)
 関連サイト:日本YWCA: パレスチナ オリーブの木キャンペーン募金

2009/04/09

『エルサレム、色の辞典』会場風景





 エルサレム、アルホーシュ画廊で開催中の展覧会『エルサレム、色の辞典』の会場風景
 アーカイヴス:『色の辞典』(3月3日)