ラベル art の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル art の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012/12/09

世界社会フォーラム、デモンストレーションに続いて

 デモンストレーションに続いて、といってもデモンストレーションは5時から6時ごろ、ポルトアレグレの日没は8時半ごろでしたが、その日、11月29日の日没後、昔ガス工場だったかガス集積所で、一度は忘れ去られ、最近イヴェント会場として脚光を浴びるようになったらしい、「パレスチナの家」と名付けられたメイン会場、ガソメトロで、Artists Against Occupationとしてのアクション、Projectional Intifadaを遂行しました。
 わたしたちの世界社会フォーラム出発直前まで、イスラエルによるガザ攻撃が続いていましたから、このProjectional Intifadaはガザへのレクイエムでした。もちろん、レクイエムを奏でることしかできないとするなら哀しすぎる、わたしたちはこれを力に変えていきたいと願っています。

 川に沈む夕日を眺めることのできるこの場所は、近隣住民の散歩コースのようで、マテ茶のカップとポットを持って散歩しているひともいました。


























all photos by AAO

2010/12/14

Projectional Intifada at MUJI, Shinjuku, Tokyo

Photo Story: Projectional Intifada at MUJI by Artists Against Occupation - 12, December 2010

Related Story: The MUJI Decided to Cancel its Plan to Open a Store in Israel


Photo: by AAO


Photo: by AAO


Photo: by AAO


Photo: by AAO


Photo: by AAO


Photo: by AAO

2010/02/20

イスラエルは美術作品で啓発されない

2010年02月18日



 スペイン美術家、Eugenio Merinoは、イスラエル外務省の支援を得ることはないでしょう。 その支援は、誰が彼らの革ひもを握っているか、えさを与えてくれる手を咬まない方法、その他多くの平凡なことどもを知っている美術家のためなのです。

 理由を知りたいですか?

 イスラエル大使館は、これは「イスラエル人、ユダヤ人、および確かに他のものにも不快である」とする声明を発表しました。

 いえ、そうではありません。例えばわたしは、イスラエル市民の20%以上を占めるパレスチナ人のほとんどだれも、怒っていないと確信しています (おお、しかし彼らイスラエル市民も「イスラエル人」としてカウントされるのしょうか? いい質問です! 閣下にお尋ねしなければ)。

 全文(英文)はタイトルクリックでご覧いただけます。

2009/06/27

アルホーシュ画廊:ジョン・ハラカ作品のフィルム・ショー



 アメリカに住むパレスチナ美術家、ジョン・ハラカのフィルムが2本、東エルサレムのアルホーシュ画廊で上映されます。
 フィルム『心の傷:アーティストと国家』についてはアーカイヴをご参照ください。ここ

2009/06/01

イスラエル人とパレスチナ人の違いを言えますか?

アダム(左)とハダス
30/05/2009, HAARETZ.com
ダリア・カーペル
 3月、ハーレツに掲載された広告は「求む:似ている人びと」、 広告で特集された8人のひとりに似ているだれかを見つけた人には8,000シェケル(1,800ドルほど)が約束されました。
 広告が明かさなかったのは、8人がパレスチナ人ということでした。
 広告はスイス人アーティスト、オリビエ・スターによるもので、彼のプロジェクト「敵」の一部、人々が「もう片方」を特定する不条理の方法に焦点をあてたものです。
 受け取った何十枚もの写真から、スターはイスラエルの少女とよく似たパレスチナの少年の写真を選びました。 少女はハダス・マオール、写真は彼女の父親、地理学教授、イフダ・ケイダルから送られました。
 長い間、二国家解決支持者だったケイダルは「ベングリオンが『パレスチナ人はいとこではない、我々の兄弟だ』と言った時、彼は正しかった。双子かもしれない」と語りました。
 パレスチナ少年、アダム・シュラティは、彼の母親ナンシーによると、少女に似ていることが少しも嬉しくありません。 アダムは、母親がハダスのように髪を切るために彼を連れて行ったとき、さらにうろたえました。
 ベイト・ハニーナに住むナンシーは、プロジェクトを「ステキ」と言い、彼女の息子のイスラエルの少女との類似が彼女を驚かせたと語りました。
「プロジェクトは、芸術のためだけでなく、わたしたちすべてに意味ある作品です」と、スターは語ります。次の「敵」プロジェクトは、ルワンダとコンゴで実施されるとのことでした。

2009/04/17

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-3(最終回)

Olive Project show at al-Hoash in Jerusalem

オリーヴの苗が届く、そして再びパレスチナ

 エルサレムに戻る朝、アンタルはカランディア(エルサレム・ラマッラ間の検問所)で時間がかかっていると電話してきたが、ほどなく現れた。若い美術家を支援しているカッターン基金から、受賞候補となった作家の作品を纏めたカタログが3冊(隔年なので6年分)贈られ、他の書籍も合わせると7キロか8キロだろうか、東京に送ることにしたので、ヴェラはアンタルに輸送会社の場所を説明する。別れの挨拶、ハグとキスをヴェラと交わし、助手席に乗り込むと「その輸送会社を使うの?オリーヴを送るのも」と、アンタルが訊く。「ラマッラ滞在中も輸送会社をあたってみるんだよ、わかった?」と言って、彼はエルサレムに戻ったのだった。「解決したのよ」と、ヴェラがPARCを紹介してくれたこと、その所長がアルアマルを知っていて直接話し、東京への輸出業務を引き受けてくれたことなど伝えた。「それはよかった」とアンタル、彼は笑うことがない、でも安堵は伝わってくる。7キロか8キロと見積もった書籍類は12キロあった。

 2007年2月2日、わたしはアンタルのワゴンでヨルダンとのボーダー、ヨルダン川にかかるアレンビー橋に向かった。軍事占領下、出入国オフィスを管理するのはイスラエル軍、パスポートをチェックするのはイスラエル兵である。オリーヴの苗木100株を、持ち帰ることも考えたが、没収されずに出国できる確信はなかった。デモに対してイスラエル軍が撃ち込む催涙ガス弾が足下に転がった場合、それを拾ってイスラエル軍に投げ返すことも「暴力」として催涙ガスにむせ返ることを選ぶ非暴力国際連帯組織ISMをも「テロ組織」指定するイスラエル政府にとっては、わたしもまた「テロリスト」に違いない。
 5日にアンマンを発ちパリ経由で6日に東京に戻ったが、3月にはビルゼイト大学美術館で、4月にはエルサレム、アルホウシュ画廊で「オリーヴ・プロジェクト」展の開催が決まっていたから、東京滞在も1ヶ月ほど、荷を解くつもりもなかったが時間もなかった。
 オリーヴ発送を知らせるメールがサリームから届いたのが12日、わたしは(あたかも輸出手数料を支払ってでもいるかのように)トラッキングしたいから輸送会社とシリアル・ナンバーを知らせて欲しいと書き送った。代理店から送らせるのに手間取ったのかもしれない、18日に送り状をスキャンしたPDFファイルが転送されてきたが、トラッキングする前に、2月19日、オリーヴの苗木100株は成田に到着した。

 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展オープニング、3月14日は朝から土砂降りの雨だった。大学美術館でヴェラとオープニングの準備をしながら「誰か来るかしら?こんな雨の日、わたしだったら展覧会になど行かない」と言うと「ラマッラ農業協同組合からオリーヴの苗が贈呈されることになっているの、ユニオンのメンバーが出席するわ、でも植樹式は無理ね」と彼女。パレスチナ在住の出品者も少なくなかったから(新たにラマッラの作家とパレスチナ在住のスエーデン水彩画家が加わった)、出品者は出席するに違いない。「サリームも来るのよ、この展覧会はPARCの支援を受けているの」、ヴェラのことば通り彼はやって来てオープニングで「あいさつ」した。雨は激しさを増すばかりだったのに、会場は人びとであふれた。「感謝のしるし、土産があるの」、サリームのオフィスを翌日、10時に訪ねることにする。

 翌朝目覚めると雨は湿った雪に変わっていた。ラマッラ、ラムは高地、アッラーは神の意、「神宿る高地」、一説では「神に導かれた民が住まう高地」、ラマッラでもオリーヴは育つのだから信州でも育ってくれるに違いないと思えるほど寒かった。携帯電話が鳴って「雪だよ、雪」と声の主、「エルサレムも雪なの?ラマッラは雪だけど」とわたし。エルサレムに行ったなら、この友人宅に、数日か1週間、仲違いしなければ10日ほど滞在することになっていた。
 晴れているならPARCは歩いて行ける距離だが、滑りそうでタクシーを使う。
 オープニングへの出席と展覧会への支援、そして何よりオリーヴ輸出の労を感謝する。「展覧会支援はわたしたちの義務」とサリーム。用意した土産は揃いのマウスパッドとアームレスト、DVDケース、(わたしの問い合わせに答えるばかりでなく、アルアマルの準備状況や、発送後のベングリオン空港での調査のことまで、必要な情報をすべて知らせてもらっていた)あまりにコンピュータに向かわせすぎたと感じていた。そして夫人に日本の組紐、帯締め、「ピュア・シルクよ、ベルトに使うの」と言うと「知ってる、ニッポンに行った時の妻への土産はキモノだったから」。
「オリーヴの輸出でおかけした手数への返礼に、わたしにできることがあるならどんなことも厭わない」と言うと「ニッポンにはオリーヴオイルを輸出していますから、わたしたちの希望は、やはり、ニッポンでの消費拡大です」と、予測した返事、「努めてみます」と応じる。輸送明細書と送り状、残金を受け取る時に、サリームがヴェラに渡した2,000ドルの預かり証を回収しなかったことに気づく。「構いません、ヴェラに廃棄するよう伝えてください」。

 このようにして、パレスチナのオリーヴの苗木100株の輸出に関する全行程を終えた。
 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展が終わり、エルサレムのアルホウシュ画廊に展示して、そのオープニングが4月5日、東エルサレムYMCAからエルファムも出席した。
 イースターの季節、エルサレムのいたるところ、観光客で溢れていた。そんなエルサレムを、4月7日、あとにする。やはりアンタルのワゴンで、しかしワゴンには満杯の観光客、もはや独占とはいかなかった。ひとつ残っていた座席に滑り込むと、隣にフィリピンからやって来た夫婦と後ろの座席に成人に達した子どもたち。ともかくも太平洋戦争を詫びる。侵略国のパスポートを持つ身、肩身は狭い、が、互いの所属の国が明らかになった以上、何事もなかったように話しだすわけにはいかない。「もう過去のことですから」と言ってもらえるが、彼らにとっても、そう言うよりほかないのだ。
 
 オルター・トレード・ジャパンが輸入するPARCのオリーヴオイルは月桂樹の香りがする。わたしは1ダースづつ注文する。個人的な嗜好で、オイルの消費量はきわめて少ないから、贈り物に使う。これで、サリームと約束した「ニッポンでの消費拡大」に努めていることになるだろうかと、時々考える。少なくても、パレスチナのオリーヴの苗木を希望した美術館の、アネックス・ギャラリーが併設するカフェではPARCのオリーヴ・オイルを使っている。信州の、読書館が併設するレストランではどうだろうと、考えている。(おわり)

 PARCのオリーヴオイルの注文はこちら:オルター・トレード・ジャパン

2009/04/15

ニダル・エルハイリー

 今朝、イエメン・タイムスに掲載された、閃きの政治漫画家、『若いパレスチナ・アーティストの横顔』を読んでいて、彼の作品を観てみたいと思い、彼の名で検索をかけると、彼のサイトがありました(表題『ニダル・エルハイリー』をクリック)。すぐ、観たことのある作品と気づきました。2004年3月、銀座の画廊で開催した第5回「占領に反対する芸術」展の出品者のひとり、わたしが展示した作品の、作家の名前を忘れていたのでした。いずれにしろ、名前を覚えるのはニッポンジンでも苦手、でも作品なら記憶に残ります(幸い)。彼と会ったのはモントリオール、そして現在はアンマンに住んでいます。
「あなたを再び見いだして嬉しい。いつ、アンマンに移ったの?」とメールすると、「僕のとなりに、トルコ・コーヒーの入った大きなカップとあなたからのメール、なんて素敵な朝なんだ」と返信が届きました。う〜ん、パレスチナの男たちは常に素敵、いえ、彼の2倍近い人生を過ごしましたから、こころときめくというのではありませんが、幼少時から年長者を真似て「口説き文句」をコレクションしているパレスチナの少年たちが思い浮かびます。7歳は大げさとしても、13歳ならもう「口説き文句」を試し始める、この国の男たちとは、多分、違って。

2009/04/09

『エルサレム、色の辞典』会場風景





 エルサレム、アルホーシュ画廊で開催中の展覧会『エルサレム、色の辞典』の会場風景
 アーカイヴス:『色の辞典』(3月3日)

2009/03/21

『心の傷:アーティストと国家』

「土地の日」記念日とグローバルBDSデーのイヴェントの部分として、カリフォルニア在住パレスチナ美術家、ジョン・ハラカが、パレスチナ48の美術家、ラナ・ビシャーラを取材したドキュメンタリー『心の傷:アーティストと国家』(2009年/53分)が、サンディエゴで初上映されることになりました。
 タイトルクリックで、7分30秒に編集された『心の傷:アーティストと国家』を観ることができます。

2009/03/16

ガザの抵抗

2009年3月15日、INTERNATIONAL SOLIDARITY MOVEMENT

2009/03/15

占領批判のインスタレーション、ヴェオリア問題


2009年3月12日、The Electronic Intifada
 美術家、ヴァン・サン・ラッドはインスタレーション『移動の経済-パレスチナの一片』(写真)で、オーストラリア、メルボルンを混乱に陥れました。
 ラッドはプラットホームという美術空間でのグループ展『破壊する抵抗の抵抗する破壊』に招待されました。何がこの作品を造らせたのか問われてラッドは「メルボルンの交通網は(フランス企業、ヴェオリア傘下の)コネックスが運行している。僕は、占領下パレスチナでのヴェオリアの違法な運行を現す絶好の機会と考えた」と応じました。プラットホームに展示された彼の作品は、ヴェオリア傘下のコネックス、常連、ユダヤ集団などからの不満にさらされ、翌日には覆われることになりました。コネックスがプラットホームを訴えると脅したのです。
 全文はタイトルクリックで。結局覆いは取り外されました。

 関連記事:『入植地へのイスラエルバス事業をフランス企業が』boycottil

2009/03/03

『色の辞典』


 エルサレム、アルホーシュ画廊で展覧会『色の辞典』が開催されます。ビルゼイト大学美術館、ならびにパレスチナ美術国際アカデミーとの共催で、キュレイションは、ヴェラ・タマリとティナ・シャーウェル、会期は、2009年3月12日から4月25日まで。
 出品作家:カマル・ボラータ/サーミア・ハラビー/ソフィア・ハラビー/ジュマーナ・フセイニ/スレイマン・マンスール/タイシール・シャラフ/ヴェラ・タマリ/ウラディミール・タマリ/ダウード・ザラティモ
 画像はサーミア・ハラビーの作品、アラビア語のカリグラフィーで構成され、アルクッズ(エルサレムのアラビア語名)の他に、ガザ、ヤーファ、ナブルスなど読み取れますから、パレスチナ古来の都市名をあらわした作品に違いありません。

関連記事:Institute for Middle East Understanding

2009/02/25

ガザ出身のセラミック・アーティスト


 ガザ出身のセラミック・アーティスト、レゼックさんの作品、彼は常滑の土でイスラミック・タイルを焼いています。ガザに家族がいますから、今回のイスラエル侵攻にどれほど心痛だったかしれません。

2009/02/21

ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオン

 第53回ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオンが造られるそうです。キュレーターはアメリカ在住のパレスチナ人、サルワ・ミクダディ。ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオンと聞いて、隔世の感、やはり時代は動いているのだなあ、と、思わない訳にはいきません。
 モナ・ハットゥーン、ロンドンに住むパレスチナ作家、パレスチナにおける現代美術の草分け的存在で、何度かニッポンの美術館の招待を受け、来日したこともありました。レバノンで生まれた彼女が、イギリスを旅行中、ベイルート空港がイスラエル軍によって封鎖、レバノンに戻ることができなくなって、結局イギリスで美術を学ぶことにしたのでした。イスラエルのベイルート侵攻がつくった作家といっても過言ではありません。
 ヴェニス・ビエンナーレに出品するのは、モナ・ハットゥーンの次世代作家たち、しかし、彼女の与えた影響は計り知れないと思います。

2009/02/19

エルサレムでガザ連帯の展覧会


 展覧会『ガザ』がエルサレム旧市街のアルマーマルで開催されます。そのオープニングへの招待状、YWCAやアルホーシュ画廊など、会場を別にしてワークショップ、上映会、コンサートなど開かれます。

2009/02/08

『ガザは人間性を希求する』


 ニューヨーク在住のパレスチナ美術家、サーミア・ハラビーの作品『ガザは人間性を希求する』

2009/02/06

戦火で焼けこげた壁で

 イスラエルの攻撃で焼けただれ、廃墟となった赤十字文化センターで、美学生、ニダ・バドワンの絵画が展示されました。「この文化センターの状況が、わたしの作品について語ってくれる筈だから」と。彼女はこのようにも言っています。「封鎖と戦争に違いはない、封鎖はゆっくり殺し、戦争はまたたく間に殺すだけ」。
 タイトルをクリックすると、画像も掲載されたニュースに移行します。

 問題は封鎖、封鎖の解除こそ求められます。せめてエジプトとのボーダーだけでも、イスラエル/アメリカの圧力から解き放す方法はないものでしょうか。エジプト観光のボイコットは即座に思いつくことですが、その結果、エジプトがますますアメリカへの依存を深めることになっても、いえ、依存を深めさせる余裕は、今のアメリカにあるとは思えません。

2009/02/05

ベツレヘム国際センターで


 ベツレヘム国際センター、ダル・アンナドゥワから展覧会への招待:

ヴィデオ・インスタレーション:"Home...Exile..." ファテン・ナスタース
オープニング:2009年2月6日(金)16:00から (展覧会は2月24日まで)
ダル・アンナドゥワ地下「洞窟」ギャラリー

 状況が過酷であるとしても、生活は続きます。だから「こんな状況下で展覧会が開催されます」などと言うつもりはありません。美術家だから制作し、展覧会をする、日常を維持することこそが「闘い」であったりします。
 ちょうど、2年前の今頃、わたしはアンナドゥワのゲストハウスに住まい、オリーヴをテーマにしたグループ展「KEEP HOPE ALIVE」の展示で忙しくしていました。ファテンは、そのグループ展にやはりインスタレーションを出品しました。

2009/02/03

エミリー・ジャーシルがグッケンハイムで


 ニューヨーク在住のパレスチナ美術家、エミリー・ジャーシルがヒューゴ・ボス賞を受賞、グッケンハイム美術館で展覧会が開催されることになりました。2月6日から4月15日まで。残念ながら展示作品の画像はありません。

 2002年、彼女はパレスチナ人の移動の不可能性を現す[Where we come from]を制作しました。アメリカの国籍とパスポートを持つ彼女はラマッラとニューヨークを行き来しています。パレスチナ48、1948年以前のパレスチナ、今ではイスラエルと呼ばれる領域をも訪ねることができます。そこで彼女は、移動を阻まれる人びとに「あなたがパレスチナでしたいことを、変わってわたしがする」と、インターネットで呼びかけました。
-パレスチナの地にザクロを植えてきて
-ハイファのカルメル山に登ってそこから地中海を眺めて欲しい
-ハイファで、わたしがそこにいたなら過ごしたであろうごく普通の1日を過ごして
-デイル・ラファト村に行って木に水をやって
-電話で話したことのある東エルサレムの女の子とデートしてきて
-ナザレの街を歩いてきて
こんなのもありました。
-アラクを持ってきて
-母を訪ねてハグとキスを、これは僕からと言って、それから日没の頃海に行って匂いをかいで、それから少し歩いて、いや充分、僕って欲張り?
このリクエストをしたのは、「ジハド、ガザ市シャティ難民キャンプ生まれ、ラマッラ在住、ガザID、両親はアスドッド出身、1948年難民となる」とあります。
 作品は、エミリー・ジャーシルがリクエストに応えて行ったことの写真、あるいはヴィデオとテキストで構成され、テキストは、リクエスト、それができない理由、エミリーの記録、例えば、ジハドの母親が、ジハドにとお菓子を持たせた、といったような記録と、ジハドについて上述したような来歴で構成され、2枚1組のパネルが、多様なリクエストによって、「こんなことも出来ないの?」と思わせる仕掛けになっています。
 2001年末から、ヤセル・アラファトの大統領府に対するイスラエルの攻撃が始まり、ラマッラはイスラエル軍によって占拠されていましたから、この制作に関わった2002年春は、エミリーの移動さえ自由とは言いがたい状況で、例えばエリコは封鎖され行くことはできませんでした。

 画像は、グッケンハイム美術館に展示される作品に変えて、[Where we come from]シリーズから1点、ジハドのリクエスト、でもリクエストは「母に、僕からとハグとキス」だけになっています。