2009/07/07

パレスチナオリーヴオイル:国際大会で特別賞、輸出の予兆

04.07.09
ナブルス
 Palestinian Union of Agricultural Work Committees(パレスチナ農業連盟委員会)は、受賞オリーヴオイルを製産してきました。
「Shami Monocultivar」パレスチナ農家と共に、イタリアのエキストラ・ヴァージンオイル第11回国際コンペティション、L’Orciolo d’Oroで、あっさりした風味あるオリーヴオイルの特別賞を受賞しました。

 全文(英語)はタイトルクリックで。

2009/06/27

アルホーシュ画廊:ジョン・ハラカ作品のフィルム・ショー



 アメリカに住むパレスチナ美術家、ジョン・ハラカのフィルムが2本、東エルサレムのアルホーシュ画廊で上映されます。
 フィルム『心の傷:アーティストと国家』についてはアーカイヴをご参照ください。ここ

2009/06/01

イスラエル人とパレスチナ人の違いを言えますか?

アダム(左)とハダス
30/05/2009, HAARETZ.com
ダリア・カーペル
 3月、ハーレツに掲載された広告は「求む:似ている人びと」、 広告で特集された8人のひとりに似ているだれかを見つけた人には8,000シェケル(1,800ドルほど)が約束されました。
 広告が明かさなかったのは、8人がパレスチナ人ということでした。
 広告はスイス人アーティスト、オリビエ・スターによるもので、彼のプロジェクト「敵」の一部、人々が「もう片方」を特定する不条理の方法に焦点をあてたものです。
 受け取った何十枚もの写真から、スターはイスラエルの少女とよく似たパレスチナの少年の写真を選びました。 少女はハダス・マオール、写真は彼女の父親、地理学教授、イフダ・ケイダルから送られました。
 長い間、二国家解決支持者だったケイダルは「ベングリオンが『パレスチナ人はいとこではない、我々の兄弟だ』と言った時、彼は正しかった。双子かもしれない」と語りました。
 パレスチナ少年、アダム・シュラティは、彼の母親ナンシーによると、少女に似ていることが少しも嬉しくありません。 アダムは、母親がハダスのように髪を切るために彼を連れて行ったとき、さらにうろたえました。
 ベイト・ハニーナに住むナンシーは、プロジェクトを「ステキ」と言い、彼女の息子のイスラエルの少女との類似が彼女を驚かせたと語りました。
「プロジェクトは、芸術のためだけでなく、わたしたちすべてに意味ある作品です」と、スターは語ります。次の「敵」プロジェクトは、ルワンダとコンゴで実施されるとのことでした。

2009/04/17

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-3(最終回)

Olive Project show at al-Hoash in Jerusalem

オリーヴの苗が届く、そして再びパレスチナ

 エルサレムに戻る朝、アンタルはカランディア(エルサレム・ラマッラ間の検問所)で時間がかかっていると電話してきたが、ほどなく現れた。若い美術家を支援しているカッターン基金から、受賞候補となった作家の作品を纏めたカタログが3冊(隔年なので6年分)贈られ、他の書籍も合わせると7キロか8キロだろうか、東京に送ることにしたので、ヴェラはアンタルに輸送会社の場所を説明する。別れの挨拶、ハグとキスをヴェラと交わし、助手席に乗り込むと「その輸送会社を使うの?オリーヴを送るのも」と、アンタルが訊く。「ラマッラ滞在中も輸送会社をあたってみるんだよ、わかった?」と言って、彼はエルサレムに戻ったのだった。「解決したのよ」と、ヴェラがPARCを紹介してくれたこと、その所長がアルアマルを知っていて直接話し、東京への輸出業務を引き受けてくれたことなど伝えた。「それはよかった」とアンタル、彼は笑うことがない、でも安堵は伝わってくる。7キロか8キロと見積もった書籍類は12キロあった。

 2007年2月2日、わたしはアンタルのワゴンでヨルダンとのボーダー、ヨルダン川にかかるアレンビー橋に向かった。軍事占領下、出入国オフィスを管理するのはイスラエル軍、パスポートをチェックするのはイスラエル兵である。オリーヴの苗木100株を、持ち帰ることも考えたが、没収されずに出国できる確信はなかった。デモに対してイスラエル軍が撃ち込む催涙ガス弾が足下に転がった場合、それを拾ってイスラエル軍に投げ返すことも「暴力」として催涙ガスにむせ返ることを選ぶ非暴力国際連帯組織ISMをも「テロ組織」指定するイスラエル政府にとっては、わたしもまた「テロリスト」に違いない。
 5日にアンマンを発ちパリ経由で6日に東京に戻ったが、3月にはビルゼイト大学美術館で、4月にはエルサレム、アルホウシュ画廊で「オリーヴ・プロジェクト」展の開催が決まっていたから、東京滞在も1ヶ月ほど、荷を解くつもりもなかったが時間もなかった。
 オリーヴ発送を知らせるメールがサリームから届いたのが12日、わたしは(あたかも輸出手数料を支払ってでもいるかのように)トラッキングしたいから輸送会社とシリアル・ナンバーを知らせて欲しいと書き送った。代理店から送らせるのに手間取ったのかもしれない、18日に送り状をスキャンしたPDFファイルが転送されてきたが、トラッキングする前に、2月19日、オリーヴの苗木100株は成田に到着した。

 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展オープニング、3月14日は朝から土砂降りの雨だった。大学美術館でヴェラとオープニングの準備をしながら「誰か来るかしら?こんな雨の日、わたしだったら展覧会になど行かない」と言うと「ラマッラ農業協同組合からオリーヴの苗が贈呈されることになっているの、ユニオンのメンバーが出席するわ、でも植樹式は無理ね」と彼女。パレスチナ在住の出品者も少なくなかったから(新たにラマッラの作家とパレスチナ在住のスエーデン水彩画家が加わった)、出品者は出席するに違いない。「サリームも来るのよ、この展覧会はPARCの支援を受けているの」、ヴェラのことば通り彼はやって来てオープニングで「あいさつ」した。雨は激しさを増すばかりだったのに、会場は人びとであふれた。「感謝のしるし、土産があるの」、サリームのオフィスを翌日、10時に訪ねることにする。

 翌朝目覚めると雨は湿った雪に変わっていた。ラマッラ、ラムは高地、アッラーは神の意、「神宿る高地」、一説では「神に導かれた民が住まう高地」、ラマッラでもオリーヴは育つのだから信州でも育ってくれるに違いないと思えるほど寒かった。携帯電話が鳴って「雪だよ、雪」と声の主、「エルサレムも雪なの?ラマッラは雪だけど」とわたし。エルサレムに行ったなら、この友人宅に、数日か1週間、仲違いしなければ10日ほど滞在することになっていた。
 晴れているならPARCは歩いて行ける距離だが、滑りそうでタクシーを使う。
 オープニングへの出席と展覧会への支援、そして何よりオリーヴ輸出の労を感謝する。「展覧会支援はわたしたちの義務」とサリーム。用意した土産は揃いのマウスパッドとアームレスト、DVDケース、(わたしの問い合わせに答えるばかりでなく、アルアマルの準備状況や、発送後のベングリオン空港での調査のことまで、必要な情報をすべて知らせてもらっていた)あまりにコンピュータに向かわせすぎたと感じていた。そして夫人に日本の組紐、帯締め、「ピュア・シルクよ、ベルトに使うの」と言うと「知ってる、ニッポンに行った時の妻への土産はキモノだったから」。
「オリーヴの輸出でおかけした手数への返礼に、わたしにできることがあるならどんなことも厭わない」と言うと「ニッポンにはオリーヴオイルを輸出していますから、わたしたちの希望は、やはり、ニッポンでの消費拡大です」と、予測した返事、「努めてみます」と応じる。輸送明細書と送り状、残金を受け取る時に、サリームがヴェラに渡した2,000ドルの預かり証を回収しなかったことに気づく。「構いません、ヴェラに廃棄するよう伝えてください」。

 このようにして、パレスチナのオリーヴの苗木100株の輸出に関する全行程を終えた。
 ビルゼイト大学美術館での「オリーヴ・プロジェクト」展が終わり、エルサレムのアルホウシュ画廊に展示して、そのオープニングが4月5日、東エルサレムYMCAからエルファムも出席した。
 イースターの季節、エルサレムのいたるところ、観光客で溢れていた。そんなエルサレムを、4月7日、あとにする。やはりアンタルのワゴンで、しかしワゴンには満杯の観光客、もはや独占とはいかなかった。ひとつ残っていた座席に滑り込むと、隣にフィリピンからやって来た夫婦と後ろの座席に成人に達した子どもたち。ともかくも太平洋戦争を詫びる。侵略国のパスポートを持つ身、肩身は狭い、が、互いの所属の国が明らかになった以上、何事もなかったように話しだすわけにはいかない。「もう過去のことですから」と言ってもらえるが、彼らにとっても、そう言うよりほかないのだ。
 
 オルター・トレード・ジャパンが輸入するPARCのオリーヴオイルは月桂樹の香りがする。わたしは1ダースづつ注文する。個人的な嗜好で、オイルの消費量はきわめて少ないから、贈り物に使う。これで、サリームと約束した「ニッポンでの消費拡大」に努めていることになるだろうかと、時々考える。少なくても、パレスチナのオリーヴの苗木を希望した美術館の、アネックス・ギャラリーが併設するカフェではPARCのオリーヴ・オイルを使っている。信州の、読書館が併設するレストランではどうだろうと、考えている。(おわり)

 PARCのオリーヴオイルの注文はこちら:オルター・トレード・ジャパン

2009/04/16

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-2


The Ethnographic and Art Museum at Birzeit University

輸出、ラマッラから東京に---ヴェラとサリーム

 アンタルの運転するワゴンで、エルサレムから北に15キロほど、ラマッラのヴェラ宅にやってきた。「歓迎する」と招待を受けたのだ。
「オリーヴ・プロジェクト」展出品者でもあるヴェラ・タマリは、2002年のイスラエル軍ラマッラ侵攻で、戦車により破壊され通りに放置された車を集めた(移動の自由を保証する筈の車の、移動の不可能性---占領を表現する)野外インスタレーションを試みたが、その会場にイスラエル軍のブルドーザが訪ねてきて作品に襲いかかり、作品の隠喩を暴露してみせたのでインターネットをにぎわせた。ビルゼイト大学美術科教授であり、大学美術・博物館の館長でもある。
 大学に向かう車中、パレスチナのオリーヴを植栽したいという日本の美術館の情熱(その美術館のアネックス・ギャラリーが「オリーヴ・プロジェクト」展のホストだったの、と)、アンタルの案内でオリーヴの苗木を100株カルキリヤで求めたこと、東京への輸送が懸案となっていることなど話した。
「アンタルという名のひとに会ったの初めて。知ってる?アンタル」とヴェラ、「知ってる、古い冒険物語のヒーローでしょ」「そう、でも昨今、アンタルと名付けることはないの。どんな物語か覚えていないけど」「結婚の条件に、珍しいラクダを要求されたのじゃない?その部分しか思い出さないけど。何といったかしら、ヒロイン」「アブラ」とこれはヴェラが思い出した。そう、アンタルとアブラだ。

 ビルゼイト大学で過ごしているとき、農水省は「許可証」を発行しない、輸出国農業省の「証明書」が必要、との知らせが東京から届く。パレスチナの運輸会社が馴染んでいる欧米への輸出システムとは違うらしい。輸出国というのは「イスラエル」だろうか、あるいは「パレスチナ自治政府」の農業省なのか、悩ましかった。
 夕刻、大学から戻ると「紹介できるひとがいるわ、彼ならオリーヴを東京に送るのを手伝える、パーク(PARC:パレスチナ農業振興委員会)のサリーム・アブガザーリよ、電話してみるわね」と、ヴェラは住所録を開く。翌日、PARCを訪ねることになったが、わたしひとり、彼女は大学がある。

 サリームのオフィスには先客がいて、「どうぞ」と机の前の椅子をわたしにあけ渡し、壁際の椅子に移る。サリームは忙しいらしく立っていた。「コーヒー?紅茶?」「紅茶、砂糖入りで」名刺を交換しながら、彼は開いたままの扉から叫んで紅茶を注文する。その僅かな隙にわたしは名刺から「所長」の文字だけ確認する。
「オリーヴの苗木を東京に送るとか、現在の状況は?」「カルキリヤのアルアマル、アルアマルはろうのひとたちの職業創出を事業としているのですが(ええ、知っていますと、サリーム)何しろ100株ですから準備中です。ニッポン農水省の許可証が必要とのことでしたが、農水省によれば許可証は発行しないと」「ええ、ニッポンの農水省は許可証を発行しません。パレスチナ農業省の証明書が添付されることになります。検疫に必要で」。要領を得なかった農水省の言い分が明確になる。彼がニッポンへの輸出を熟知していることは疑いない。パレスチナ農業省の証明書ならば問題もない。
 PARCはニッポンにもオリーヴオイルを輸出しているという。手渡されたリーフレットには取り引きのある外国の企業というよりはNGOと思しきリストが掲載されていた。サリームは、日本の輸入元、Alter Trade Japanを指差す。
「分量は100株、価格は?」「500ドル」「品質は?」「3年ものと4年もの」「PARCが輸出を引き受けましょう、PARCの荷物ということで、手数料なしで(「ただで」と言ったのだった)」「感謝します」。これもヴェラの紹介があったからなのだ。実は期待していた訳ではなかったが、懸案は猛烈なスピードで解決に向かっていた。PARCの所長は忙しい、何度かかかってくる電話で中断され、スタッフが書類への署名を求めてやってくる。その合間合間に、大急ぎでわたしたちは話していた。
「必要な書類を言いますから、アルアマルに伝えてください」「電話しますが直接話してくださる?ワリード(アルアマル所長)は英語を話しませんから」とわたしは携帯電話を取り出す。「構いません」ワリードの携帯電話につないで「ちょっと待って」とすぐサリームに手渡す。彼が発する、わたしも理解する「ムシモシュケレ(問題ない)」「タイーブ(いいでしょう)」などから展開は上首尾とわかる。アラビア語だったにも拘らず、パレスチナ農業省の証明書はPARC宛でと言ったのがわかったのは、既に英語で聞いていたからに違いない。「彼は会議があって明日ラマッラに来るそうです。ここに寄ってもらうことになりました。輸送はPARCが依頼している代理店を使いましょう。輸送料はいくらになるか判りませんから2,000ドル、ヴェラに預けておいてください。送り先はメールで(これは手書きの判読を避けるため)」、必要にして充分、彼のことばに無駄はない。これで懸案は片付いたのだった。彼が忙しいのだから長居は無用、「そうします、3月にまたまいりますから、ベツレヘムで開催中の展覧会がビルゼイト大学美術館でも開催されますので、足りなければその時に」と、金銭的な心配は無用とのメッセージを残す。「感謝します」、そしてタクシーを呼んでもらう。

(つづく)

2009/04/15

ニダル・エルハイリー

 今朝、イエメン・タイムスに掲載された、閃きの政治漫画家、『若いパレスチナ・アーティストの横顔』を読んでいて、彼の作品を観てみたいと思い、彼の名で検索をかけると、彼のサイトがありました(表題『ニダル・エルハイリー』をクリック)。すぐ、観たことのある作品と気づきました。2004年3月、銀座の画廊で開催した第5回「占領に反対する芸術」展の出品者のひとり、わたしが展示した作品の、作家の名前を忘れていたのでした。いずれにしろ、名前を覚えるのはニッポンジンでも苦手、でも作品なら記憶に残ります(幸い)。彼と会ったのはモントリオール、そして現在はアンマンに住んでいます。
「あなたを再び見いだして嬉しい。いつ、アンマンに移ったの?」とメールすると、「僕のとなりに、トルコ・コーヒーの入った大きなカップとあなたからのメール、なんて素敵な朝なんだ」と返信が届きました。う〜ん、パレスチナの男たちは常に素敵、いえ、彼の2倍近い人生を過ごしましたから、こころときめくというのではありませんが、幼少時から年長者を真似て「口説き文句」をコレクションしているパレスチナの少年たちが思い浮かびます。7歳は大げさとしても、13歳ならもう「口説き文句」を試し始める、この国の男たちとは、多分、違って。

2009/04/14

パレスチナのオリーヴの苗木を100株-1



Olive Project show at the International Center of Bethlehem

オリーヴの苗を100株、カルキリヤで---アンタル

 第1回(2006年5月)が、東京のアート・ホールで開催された「オリーヴ・プロジェクト」展は、新たにカナダ作家の参加を得てベツレヘム国際センターで開催中だった。この展覧会のキュレーターとして(出品者でもあるが)展示のため、わたしはパレスチナに滞在していた。
 東エルサレムYMCAから、イスラエル軍によって引き抜かれたオリーヴの再植樹を促す「オリーヴの樹キャンペーン」への協力要請を受け、Artists Against Occupation (AAO/占領に反対する芸術家たち)10人ほどが、各国(カナダ、フランス、日本、アメリカ)からパレスチナに集まったのが2004年10月、ベツレヘム、カルキリヤ、ナザレなどでオリーヴを取材した。この取材から生まれた作品で構成される展覧会が世界各地で開催され「キャンペーン」が知られ、植樹への寄付が集まることをYMCAは期待していたが、東京での第1回展まで既に1年半が経過していた。第2回展となったベツレヘム国際センターでのオープニングは、2007年1月25日。ベルファストから、遅れてオリーヴ取材に訪れたAAOメンバー、リチャードとクリスティンもこのオープニングに出席した。

 オープニングを終えてエルサレムホテルに移ったわたしは、このホテルの観光部門、オルタナティヴ・ツアーのドライバー、アンタルとオリーヴの苗を求めてカルキリヤに向かった。
 ヨルダン川西岸はガザ回廊と並んで、1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争によりパレスチナに残された領域(実際には中東戦争の結果として、西岸はヨルダンに、ガザはエジプトに併合された)、あるいは1967年の第三次中東戦争以来、イスラエルの軍事占領を受ける領域をあらわす呼称となった。その西岸北西部、エルサレムから直線距離で50キロほどにカルキリヤは位置する。信州に植栽されるのだから北のオリーヴを手に入れようと考えてはいたものの、アンタルには別の目論見があって「個人の店で買ってもそのひとの懐を潤すだけ、でもアルアマルで買うなら利益はすべて聴覚障害者の支援に使われるんだ」と、75キロほどだろうか(イスラエル・ナンバープレートのワゴンで、西岸の道路封鎖や検問所を避け、イスラエルのハイウェイを使う)遠出の意義を力説する。「ぼくの寝室もアルアマルの木工所の家具で設えたんだ」と。
 アルアマルの圃場に着くとシートベルトを外しながら「苗木1株、いくらと考えている?」とアンタルが訊く、「5ドル」とわたし。3年もの1株3ドル(日本で買うなら30ドルは下らない)、それに土を洗い落として(土付きでは輸入できない)水をしみ込ませたボロで包む手数料を含めた金額である。アンタルは交渉を担おうと考えているらしい、何しろここに案内したのは彼なのだから。
「1株あたり5ドルでいかがですか?」とアルアマルの所長、ワリード。妥当な金額だから値切らない。「いいわ、苗木は3年もの、土を洗い落とすのも水をしみ込ませた布で包むのもすべて含めて」「ええ、苗木は3年ものと4年もの(3年ものだけでは100株揃わないらしい)、段ボール箱に梱包して輸出の段取りまですべてこちらで。どちらの運送会社を使いますか?」とアルアマル。布ではなく土の変わりにピートモスをビニールポットにつめて水を含ませるという。交渉成立、圃場から街中のオフィスに移動する途中、アルアマルの作業所、木工所とアルミサッシュ工場に立ち寄る。アラビア語で交渉していたアンタルもさすがに手話の心得まではなく、木工所で戸棚を作っていた聴覚障害のふたりの青年たちとの会話は不可能だった。オフィスで甘い紅茶を飲みながら、500ドルの領収証を受け取る。輸出にあたって、ニッポン農水省の許可証が必要とのことだった。エルサレムに戻る車中「あしたの朝、運輸会社をいくつかあたった方がいいね、アラメックスとDHLと他にも」とアンタル。

 翌日は日曜だったが東エルサレムの殆どは営業している。アラメックスとDHLをまわり成田への輸送料を訊ねる。支店長はアルアマルに電話して、段ボール箱の容量を確認すると計算機を叩く。2,500ドル、オリーヴの代金と合わせて3,000ドル、ニッポンで買うのと変わりないなら高くはない。何より(当時)建設途上の読書館の庭に植栽するオリーヴは、パレスチナのものでなければならないというのだから。どの支店も、植物の輸出にはニッポン農水省の許可証が必要と口をそろえる。
 東京の美術館出版部門に電話して、農水省に植物輸入の「許可証」なるものについて問い合わせるよう依頼する。明日は月曜だから農水省も「営業日」だし、と。

(つづく)
 関連サイト:日本YWCA: パレスチナ オリーブの木キャンペーン募金

2009/04/09

『エルサレム、色の辞典』会場風景





 エルサレム、アルホーシュ画廊で開催中の展覧会『エルサレム、色の辞典』の会場風景
 アーカイヴス:『色の辞典』(3月3日)

2009/03/21

『心の傷:アーティストと国家』

「土地の日」記念日とグローバルBDSデーのイヴェントの部分として、カリフォルニア在住パレスチナ美術家、ジョン・ハラカが、パレスチナ48の美術家、ラナ・ビシャーラを取材したドキュメンタリー『心の傷:アーティストと国家』(2009年/53分)が、サンディエゴで初上映されることになりました。
 タイトルクリックで、7分30秒に編集された『心の傷:アーティストと国家』を観ることができます。

2009/03/16

ガザの抵抗

2009年3月15日、INTERNATIONAL SOLIDARITY MOVEMENT

2009/03/15

占領批判のインスタレーション、ヴェオリア問題


2009年3月12日、The Electronic Intifada
 美術家、ヴァン・サン・ラッドはインスタレーション『移動の経済-パレスチナの一片』(写真)で、オーストラリア、メルボルンを混乱に陥れました。
 ラッドはプラットホームという美術空間でのグループ展『破壊する抵抗の抵抗する破壊』に招待されました。何がこの作品を造らせたのか問われてラッドは「メルボルンの交通網は(フランス企業、ヴェオリア傘下の)コネックスが運行している。僕は、占領下パレスチナでのヴェオリアの違法な運行を現す絶好の機会と考えた」と応じました。プラットホームに展示された彼の作品は、ヴェオリア傘下のコネックス、常連、ユダヤ集団などからの不満にさらされ、翌日には覆われることになりました。コネックスがプラットホームを訴えると脅したのです。
 全文はタイトルクリックで。結局覆いは取り外されました。

 関連記事:『入植地へのイスラエルバス事業をフランス企業が』boycottil

2009/03/14

カルキリヤとツルカルムの水害


2009年3月12日、STOP THE WALL
 雨の少ない冬で、旱魃が懸念されていましたが、2月末から3月初め、豪雨がパレスチナを襲い「分離壁」で囲まれているカルキリヤとツルカルムの畑や温室は水に浸かりました。「壁」の下に水を流すトンネルは造られているものの、金網で塞がれているので、そこにゴミなどが絡み、ドレインの機能を果たしませんでした。
 全文は:STOP THE WALL

2009/03/13

ドキュメンタリー GAZA


 フランスから届いたドキュメンタリー『GAZA』のポスター、フランス語は読めませんが、送り主がサミール・アブダッラー、ドキュメンタリー作家ですから、おおよその見当はつきます。すぐガザに入って撮影し、休む間もなく編集したのだと。
 フランス語を読む方はタイトルクリックで、上映会の日程(パリで、だと思いますが)など詳細のページに移行します。

2009/03/09

イスラエル、カルキリヤでオリーヴを伐採


2009年3月8日
 カルキリヤ地区のラスティラ村のパレスチナ農夫は、彼のオリーブを含む村民のオリーヴの樹々がイスラエルに伐採されるのをみて心臓発作をおこしました。この伐採に異議を唱えたイスラエル活動家2人とアメリカ、デンマーク、スエーデンからの連帯活動家3人、計5人が逮捕され、ケドゥミム入植地の警察署に連行されました。
 全文は:International Solidarity Movement

2009/03/03

『色の辞典』


 エルサレム、アルホーシュ画廊で展覧会『色の辞典』が開催されます。ビルゼイト大学美術館、ならびにパレスチナ美術国際アカデミーとの共催で、キュレイションは、ヴェラ・タマリとティナ・シャーウェル、会期は、2009年3月12日から4月25日まで。
 出品作家:カマル・ボラータ/サーミア・ハラビー/ソフィア・ハラビー/ジュマーナ・フセイニ/スレイマン・マンスール/タイシール・シャラフ/ヴェラ・タマリ/ウラディミール・タマリ/ダウード・ザラティモ
 画像はサーミア・ハラビーの作品、アラビア語のカリグラフィーで構成され、アルクッズ(エルサレムのアラビア語名)の他に、ガザ、ヤーファ、ナブルスなど読み取れますから、パレスチナ古来の都市名をあらわした作品に違いありません。

関連記事:Institute for Middle East Understanding

2009/02/26

東エルサレムからのパレスチナ人追放の停止を

 JAIから(2009年2月25日)
 東エルサレムに居住するパレスチナ人に対する民族浄化がエスカレートし、イスラエルは、2月23日、1,500人の住民が路頭に迷うことになる88家屋の破壊を命じました。2004年から、イスラエルが、許可なく建てられたとして破壊した家屋は既に350にのぼりますが、パレスチナ人に建築許可が下りることはほとんどありません(自らが所有する土地に建てているのです、イスラエル入植地のように、不法に占拠、あるいは没収した土地にではなく-みづやるひと)。
 イスラエルNGO、「家屋破壊に反対する委員会」は、1967年以来、イスラエルは12,000以上のパレスチナ家屋を破壊し、ほぼ70,000人を追放したと語ります。
 JAIは、すべてのYWCA、YMCA、国際NGO、国際社会に、このような国際法に反する破壊を停止するよう、イスラエル政府に圧力をかけるよう、自国政府に申請してくださることをお願いします。

 以上が、JAIから届いた手紙の抄訳ですが、タイトルクリックでオリジナル(英語)に移行します。世界が、イスラエルのガザでの残虐な殺戮に目を奪われている間も、東エルサレムの家屋破壊は続けられていました。あまりに長く家屋破壊は続いて来たので、ニュースになることさえありませんが、このような不公正の常態化を許すべきではありません。

2009/02/25

ガザ出身のセラミック・アーティスト


 ガザ出身のセラミック・アーティスト、レゼックさんの作品、彼は常滑の土でイスラミック・タイルを焼いています。ガザに家族がいますから、今回のイスラエル侵攻にどれほど心痛だったかしれません。

わたしたちにできる小さなこと-9

 ガザ広域で発見された白リン弾(の破片)はアメリカ製だったとの報告が公表されたとのこと、これを受け、アムネスティ・インタナショナルUSAが、ヒラリー・クリントンに宛て、イスラエルのガザ攻撃におけるアメリカ製兵器の調査を開始するよう求める署名活動を展開しています。
 タイトルクリックで署名ページに移行します。

2009/02/23

ガザの農夫の日々


 2月18日水曜日、ガザ、ハーン・ユーニスの東、アル・ファラヒーン村の畑でパセリとほうれん草を収穫中のこと、イスラエル軍は農夫たちに発砲しました。モハマド・アル-ブリーム(20歳)が右足を撃たれたのは、イスラエルとのボーダーから700メートルほど離れた畑、国際人権組織が彼らとともに作業をしていて、撮影されたヴィデオです。

2009/02/21

ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオン

 第53回ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオンが造られるそうです。キュレーターはアメリカ在住のパレスチナ人、サルワ・ミクダディ。ヴェニス・ビエンナーレにパレスチナ・パヴィリオンと聞いて、隔世の感、やはり時代は動いているのだなあ、と、思わない訳にはいきません。
 モナ・ハットゥーン、ロンドンに住むパレスチナ作家、パレスチナにおける現代美術の草分け的存在で、何度かニッポンの美術館の招待を受け、来日したこともありました。レバノンで生まれた彼女が、イギリスを旅行中、ベイルート空港がイスラエル軍によって封鎖、レバノンに戻ることができなくなって、結局イギリスで美術を学ぶことにしたのでした。イスラエルのベイルート侵攻がつくった作家といっても過言ではありません。
 ヴェニス・ビエンナーレに出品するのは、モナ・ハットゥーンの次世代作家たち、しかし、彼女の与えた影響は計り知れないと思います。

2009/02/19

パレスチナの奪われた土地

ニリン村から


 オリーヴが引き抜かれています。

エルサレムでガザ連帯の展覧会


 展覧会『ガザ』がエルサレム旧市街のアルマーマルで開催されます。そのオープニングへの招待状、YWCAやアルホーシュ画廊など、会場を別にしてワークショップ、上映会、コンサートなど開かれます。

2009/02/18

わたしたちにできる小さなこと-7


 EUとイスラエルの通商合意を、イスラエルが国際法を遵守し、人権を尊重するまで、延期するよう求める署名活動です。EUはイスラエル製品の最大の輸入経済圏とのこと、それゆえ、EUへの要請は効果が期待できると思います。ガザの封鎖解除も要請されています。
 タイトルをクリックすると署名ページに移行します。

2009/02/17

2009年オリーヴ植樹プログラム-8


 オリーヴ植樹プログラム、最終日の抄訳です。

第9日(2月15日):ジャブア
 この日は、ベツレヘムに住みエルサレムに仕事を持つ2000人のパレスチナ人の常態化した手順を視るため、まだ暗いうちに始まりました。定刻に仕事場に着くようにと、チェックポイントには午前3時からパレスチナ人の列ができるのです。(携帯電話、小銭入れ、鍵ばかりではありません、腕時計も、ベルトも外し、靴も脱がなければなりません。さもないと、金属探知のブザーが鳴ってしまいます-みづやるひと)

 ベイト・サフールで朝食を取った後、南西に数マイル、美しい田園の村、ジャブアにオリーヴ植樹に行きました。隔離壁が完成すると所有者から切り離される、アブ・フィラスとアブ・ニダルの畑でした。アブ・フィラスの畑は高速道路に隣接しており、入植者が、セダンを大変ゆっくり運転して、何度も通り過ぎていました。30分ほど後、わたしたちが高速道路を横切ってアブ・ニダルの畑に行くと、軍警察の車がやってきて木を引き抜くと脅して立ち去りました。参加者は大いなる情熱にかられ植え続けました。
 気がつくと、軍用ジープが止まっていて、兵士が二人「閉鎖軍事地域だ、植樹を止めろ」と言うのを聞きました。「この土地は農夫のもの」と農業技師のモハマド・サフィが言いました。「世界中どこだって自分の土地に植樹するのは構わない」「閉鎖軍事地域だ」と兵士は言い「彼らがここに植樹するには許可が必要だ、農夫はそれを知っている、彼らはイスラエル市民局に行って許可を得なければならない」。バハが「軍令を見せて欲しい」と言うと、兵士はふたつの畑が「閉鎖軍事地域」とされる地図を引き出しました。バハは、参加者が最後まで植えてしまえるよう、兵士にいくつか質問をしましたが、兵士は「連中は植えている」と激しさを増し、植えていたふたりに近づくと木を引き抜くと脅しました。わたしたちが畑を断念すると、兵士たちは去り、わたしたちは道路脇に坐りました。農夫の家族から美味しいマクルーベがふるまわれました。軍令について調べてみると、ふたりの畑が「閉鎖軍事地域」に指定されたのは今日、午前10時のことでした。(画像はイスラエル軍令)

 午後はベツレヘムで買い物などして、7時半に再会、最後の夜、食事と音楽を堪能しました。

2009/02/15

2009年オリーヴ植樹プログラム-7


 オリーヴ植樹プログラム、第8日の抄訳、タイトルをクリックすると英語ページに移行します。
 画像はビルゼイト大学学内(駐車場付近と思われます-みづやるひと)

第8日(2月14日):ラマッラ
 この日はベイト・サフールからラマッラへのドライブで始まりました。かつてはエルサレム経由で25分で行くことができましたが、現在はいくつかのチェックポイントを含め、大回りの1時間長い冒険旅行です。
 ラマッラ到着後、「子どもを護るインタナショナル」から、イスラエル政府により投獄されている何百人もの子どもの状況について聞きました。ハーレドによると、子どもが強制のもと自白する前に、弁護士が子どもと接見できないケースは90パーセント以上、例えば「医療的配慮」を要する子どもの場合、子どもが読めないヘブライ語で書かれた自白調書に署名するよう言われることもあるそうです。仮に軍事法廷で、自白が得られなかったり、告訴できなかった場合でも、彼らは、6ヶ月の行政勾留をすることができ、何度更新しても構わないのです。
 その後わたしたちは、政治犯の人権と支援のための組織「アダメール」と合流、パレスチナ政治犯の状況、無期限勾留や、原告弁護士にさえ「安全上の理由」ということで開示されない政治犯ファイル、また、感覚を奪ったり「バナナ」と呼ばれる、後ろに傾いた椅子に縛りつけるイスラエルの拷問技術について聞きました。
 ビルゼイト大学に行って昼食をとり(ビルゼイト大学のカフェテリアの料理はかなり美味-みづやるひと)、その後、教育の権利キャンペーンのコーディネータから、占領によって、いかにパレスチナ教育が阻害されているか聞きました。
 ラマッラに戻る途中、ヤセル・アラファトの墓に立ち寄り、ラマッラ市街で1時間ばかり緊張をほぐす自由時間を過ごしました。ベイト・サフールに戻るために、またチェックポイントを通過しなければなりませんでした。

2009年オリーヴ植樹プログラム-6


 オリーヴ植樹プログラム、第7日の抄訳

第7日(2月13日):アルハデル
 アルハデルのアブ・マヘルの農地はアーモンドのピンクの花が(桜のよう、でも桜の花より少し大きめ-みづやるひと)咲き乱れていました。でも遠くには例の幾何学的入植地、北にエル・アザル、西にアロン・シャヴァト、南にミグダル・オズ、そして東にエフラットが見え、間には、イスラエルのバイパスがアブ・マヘルの農地の縁に走っています。そして今、アブ・マヘルの丘の頂は、計画によるとアブ・マヘルの土地を飲み込んで、ついにはエル・アザルとアロン・シャヴァトを繋ぐ新しい入植地の前哨拠点として、数十のトレーラーハウスが無断居住しているのです。
 アルハデルは、隔離壁により土地の95パーセントを失いました。アブ・マヘルの土地も、1949年の停戦ラインから5キロメートル西岸にくい込んだ隔離壁の向こう側になってしまいました。もしイスラエルがアブ・マヘルのゲートを、あるいはバイパスへのアクセスを閉鎖するなら、彼は自分の農地へのアクセスを失うことになります。助けになるものがあるとするなら、それはオリーヴ。

 最初の1本を植える前に軍用ジープがやって来て、誰の土地かを知りたがりました。アブ・マヘルの、自分の土地(それも4世代に渡って)との主張に疑念を差し挟み、結局アブ・マヘルは、日曜日、市民課に土地権利証を持っていくことを了承しなければなりませんでした。兵士たちはわたしたちを写真に撮り「今日のデモでお前たちの誰でも見つけたら日曜日に木を全部引き抜いてやる」と脅しました。
 デンマークルーテル派教会代表団から12人が加わって植樹しました。昼までにすべて植樹して、参加者はアブ・マヘルのシェルターに集まりました。昼食が届き、わたしたちはアブ・マヘルと家族の歓待を享受しました。

 午後、わたしたちはベイト・サフールのJAI本部で過ごし、参加者がそれぞれの経験を持ち帰りどう行動できるかの話を聞き、5人づつのグループに分かれて、ここで学んだこと、知識をどのように広め、パレスチナ人を支援していくかを話し合いました。

2009/02/14

2009年オリーヴ植樹プログラム-5


 オリーヴ植樹プログラム第6日の抄訳。

第6日(2月12日):ヘブロン
 アブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとレアの墓があるイブラヒムモスク(ゴールドスタインの乱射事件のあったモスク-みずやるひと)までの僅か100メートルほどの間で、わたしたちは3カ所のチェックポイントを通らなければなりませんでした。ヘブロンは、西岸の他の都市と違って、イスラエル人入植者が、旧市街の中心部に、パレスチナ人の家屋の隣や上の階に住み着いています(上の階からゴミを投げ捨てるので、旧市街には鉄製ネットが張られています-みづやるひと)。
 オランダからの参加者、フランツは、「地中海からユーフラテスまですべてユダヤの土地で、パレスチナ人に対する不正義など存在しない」と主張する入植者と言い合いになりました。最も若い参加者、ジュネーヴからやって来た20歳のレア・キンバーは遭遇したことにこころ動かされました。「わたしはイスラエルに惹かれてきた」とユダヤ系のレアは言います。イスラエル旅行を計画しましたが、彼女の祖父、ドナルド・フィリンガーがオリーヴ植樹プログラムに参加すると聞き、「青天の霹靂のように」一緒に行くと決め、その5日後にはベイトサフールにいたのでした。彼女のはじめの数日は超現実で「すべてがジョーク、ヴィデオゲームの中にいるように感じた、わたしの現実をあまりに越えていて」でも今日、「わたしはシオニストと話すフランツをみて、いたたまれず離れて涙が込み上げてきて、これは現実、もはやジョークじゃない」と言いました。
 その後、わたしたちは旧市街にあるヘブロン回復委員会のオフィスを訪ねました。委員会は200から800年前の建築物を修復したり建て直して、旧市街に再びパレスチナ人が住めるよう努めています。また「みなさんにも無料で住居を提供できる、電力も水道も提供できるが、安全ばかりは提供できない」と語りました。
 それから、迷路のような旧市街を歩き、新市街で昼食、ベイトサフールに帰る前、ガラス工場に立ち寄りました。

2009/02/12

2009年オリーヴ植樹プログラム-4


 第5日の抄訳、詳しくはタイトルクリックで移行する英語版をご覧ください。

第5日(2月11日):エルサレム
 ベイト・サフールでは、昨晩、雷が鳴り土砂降りが朝まで続きました。パレスチナは例をみない干ばつに見舞われており、恵みの雨となりました。
 エルサレムに向かうベツレヘムのチェックポイントで、イスラエル兵がふたりバスに乗り込んできて、参加者のうち6人をオフィスに連れて行きましたが、間もなく通過することができました。
 ダマスカス門からエルサレム旧市街を観光、昼食後、旧市街から東エルサレムYMCAに向かい、YMCAの西岸をカバーする多岐にわたるプログラムの説明を受けました。その後バスに戻り、イスラエル家屋破壊反対委員会(ICAHD)からアンジェラ・ゴドレイ・ゴールドステインが同乗、西岸のマーレ・アドゥミン入植地、東エルサレムの入植地など案内してもらい、これら入植地建設が引き起こす、パレスチナ人家屋の破壊の多くの例について説明を受けました。
 ロンドンからの参加者、フィルは、2007年にICAHDのツアーに参加したことがあり、「すべてが変わってしまっている、占領は猛烈なスピードで進み、まるで癌のようだ」と話しました。

フィリップ・リズク解放

 フィリップ・リズクが解放されました。タイトルクリックで詳細(英語)にアクセスできます。
 署名活動は2日間で2,500に達したとの報道もあります。

わたしたちにできる小さなこと-6

 2月6日、カイロでのこと、ガザとエジプトを繋ぐラファのボーダーを解放するよう求めるデモで、大学院生で活動家のフィリップ・リズクがエジプト公安により逮捕されました。どこに連れて行かれたのかも明かされず、拷問が懸念されています。フィリップ・リズクの即時解放を求める署名活動にご協力ください。
 タイトルをクリックすると署名ページに移行します。
 アメリカの支援で成り立つ国だからでしょうか、エジプトはまるでイスラエルのように振る舞います。

2009/02/11

2009年オリーヴ植樹プログラム-3


 届いた報告、オリーヴ植樹プログラムの第4日の抄訳、詳細はタイトルクリックで。

第4日(2月10日):フサン/ARIJ
 訪れたのは、ベツレヘムに近いフサン村のイスマエル・アフメド・サブティン、38歳の農地。イスラエル入植地、ベダル・イリットが建設され、イスマエルの農地と入植地の間、わたしたちが植樹した場所から100メートルも離れていないところに、パレスチナ人は使えない高速道路が走っています。
 入植地ベダル・イリットとイスマエルの土地を無断使用するイスラエル軍前哨拠点などとの緊張を考え(イスラエル兵がふたり、わたしたちを視ていました)、EAPPI(パレスチナとイスラエルの普遍同伴プログラム)から4人に加わってもらいました。その中のひとりが「イスマエルがひとりだったなら、ここで木を植えるだけで逮捕されるだろう」と話しました。

 昼食はベイト・サフールのレストラン、次に向かったのがベツレヘムのARIJ(エルサレム応用調査学会)、ジャド・イサクから西岸の地政学状況について話を聞きました。

2009/02/10

2009年オリーヴ植樹プログラム-2


 東エルサレムYMCAから届いた「植樹プログラム」第3日の抄訳
 
第3日(2月9日):ワラジャ/バディル
 午前中、ワラジャのオリーヴ農家、ナエル・ハリールの土地に200本近いオリーヴを植えました。イスラエル政府が、彼の土地を没収できないように。
ナエルの場合:第二次インティファーダ当初から、イスラエル兵が定期的にやって来ては、ナエル自身の土地であるにもかかわらず、イスラエルの許可なく家屋を維持しているとして、法廷に呼び出し、破壊すると脅してきました。

 午前の重労働の後、ナエルの一家は40数人の集団を中庭に招き食事を提供してくれました。
 午後、バディル・センターに行き、パレスチナ難民の歴史と帰還権についての話を聞きました。

2009/02/09

わたしたちにできる小さなこと-5

 バラク・オバマ大統領に宛て、アメリカ・パレスチナ社会フォーラム起草の「パレスチナ独立国家を直ちに承認するよう求める」要請文への署名、タイトルクリックで署名ページに移行。

バルセロナで

 イスラエルのバスケットチーム、マッカビー・テルアヴィヴが、バルセロナの競技会場で受けた「歓迎」、振りかざされる多くのパレスチナ旗、「ボイコット・イスラエル、ヴィヴァ・パレスチナ」の大合唱。
 タイトルをクリックするとニュースのページ(英語)に移行、動画が埋め込まれています。

2009年オリーヴ植樹プログラム


 東エルサレムYMCAとパレスチナYWCAによる共同事業、「オリーヴ植樹キャンペーン」に付随するプロジェクト、「オリーヴ植樹プログラム」の2009年が、2月8日から始まりました。パレスチナから届く日々の報告の概要のみ、お知らせいたします。
 タイトルをクリックすると詳細を記したページ(英語)に移行します。

第1日:到着
 37人が8ヵ国、オーストラリア、ベルギー、フランス、オランダ、ノルウェー、スイス、イギリス、アメリカから到着しました。
第2日:ベツレヘム
 朝、シェパード広場を訪ね、丘からイスラエル入植地、ハール・ホマをのぞみました。次にベツレヘムのアパルトヘイト壁を歩きました。次に訪れたのがディヘイシャ難民キャンプ、子どもたちが話しかけてきます。昼食後、バスで、ヘロデの建造といわれる要塞(丘にしか見えないのですが-みづやるひと)に出かけ、頂上からは死海越しにヨルダンを眺めることができました。夕刻、ベツレヘムに戻り生誕教会を訪ねました。

2009/02/08

『ガザは人間性を希求する』


 ニューヨーク在住のパレスチナ美術家、サーミア・ハラビーの作品『ガザは人間性を希求する』

2009/02/06

南アフリカからのメッセージ

 南アフリカの港湾労働者は、2月8日、ダーバンに到着予定のイスラエルからの船舶の荷揚げをしないと発表しました。どの国の荷物であれ、弾圧と搾取への加担の拒否を明確にしていて、去年は、中国からジンバブエに輸送される武器の荷揚げを拒否しています。
 この2月8日の荷揚げ拒否は、労働者の抵抗運動の輝かしい歴史の一部となるだろうと、それというのも、南アに対する反アパルトヘイト運動が起こった4年後、1963年、デンマークの港湾労働者が南ア製品の荷揚げ拒否、仕方なくスウェーデンに行くと、スウェーデン港湾労働者がこれに続き、リバプールで、後にはサンフランシスコでも荷揚げが拒否され、南アのアパルトヘイトを終わらせるきっかけとなった港湾労働者の抵抗の心意気を、今度はここ、南アから始めると、高らかにうたっているようです。

 ボイコットが港湾労働者から始まるとすると、釜山でしょうか、このあたりでは。

戦火で焼けこげた壁で

 イスラエルの攻撃で焼けただれ、廃墟となった赤十字文化センターで、美学生、ニダ・バドワンの絵画が展示されました。「この文化センターの状況が、わたしの作品について語ってくれる筈だから」と。彼女はこのようにも言っています。「封鎖と戦争に違いはない、封鎖はゆっくり殺し、戦争はまたたく間に殺すだけ」。
 タイトルをクリックすると、画像も掲載されたニュースに移行します。

 問題は封鎖、封鎖の解除こそ求められます。せめてエジプトとのボーダーだけでも、イスラエル/アメリカの圧力から解き放す方法はないものでしょうか。エジプト観光のボイコットは即座に思いつくことですが、その結果、エジプトがますますアメリカへの依存を深めることになっても、いえ、依存を深めさせる余裕は、今のアメリカにあるとは思えません。

2009/02/05

ベツレヘム国際センターで


 ベツレヘム国際センター、ダル・アンナドゥワから展覧会への招待:

ヴィデオ・インスタレーション:"Home...Exile..." ファテン・ナスタース
オープニング:2009年2月6日(金)16:00から (展覧会は2月24日まで)
ダル・アンナドゥワ地下「洞窟」ギャラリー

 状況が過酷であるとしても、生活は続きます。だから「こんな状況下で展覧会が開催されます」などと言うつもりはありません。美術家だから制作し、展覧会をする、日常を維持することこそが「闘い」であったりします。
 ちょうど、2年前の今頃、わたしはアンナドゥワのゲストハウスに住まい、オリーヴをテーマにしたグループ展「KEEP HOPE ALIVE」の展示で忙しくしていました。ファテンは、そのグループ展にやはりインスタレーションを出品しました。

すてきなジョーク

 本当の話かどうかはともかくすてきなジョーク、とことわってカナダの知人から届いたもの。

 最近、国連会議で笑みを誘った、スピーチとポリティクスの創造的例:
 国連におけるパレスチナ代表のスピーチ:

「スピーチに入る前に、少しモーセについて話したいと思います。モーセが岩を打ち、水が現れた時、『これは風呂に入るよい機会』と考え、衣を脱いで脇の岩に置き、水に入りました。水から出て衣を着けようとすると、衣は無くなっていました。イスラエル人が盗ったのです」
 イスラエル代表は激怒して立ち上がり「何が言いたい、その頃そこにイスラエル人はいなかったんだ」と叫びました。
 パレスチナ代表は笑みを浮かべて言いました。「さて、明確になりましたから、本題のスピーチに入りたいと思います」

 

2009/02/04

シアトルの通りに

トルコの場合


 トルコ商社はイスラエルとの取引を見直すかもしれません。画像のようなバナーが出ていたなら、ついこの店に入ってしまいそうです。

わたしたちにできる小さなこと-4

 国連に、イスラエルの戦争犯罪を審理する特別法廷の設立を要望する署名。「あらゆる人種差別を撤廃する国際組織」(EAFORD)による起草。
 タイトルをクリックすると署名のページに移行します。

わたしたちにできる小さなこと-3

「パレスチナの平和を考える会」起草による、エルサレム賞を受賞することになっている村上春樹氏への公開書簡への署名(終了しました)

2009/02/03

ガザのためにわたしたちができる小さなこと-2

 アイルランド・パレスチナ連帯キャンペーンによる、ヨーロッパ連合に、イスラエル支援を停止するよう求める署名
 タイトルをクリックすると、署名ページに移行します。

サンキュー、しかしノー・サンキュー

 ギリシア国会議員、テオドロス・パンガロスが、イスラエルの駐ギリシア大使に宛てた手紙、3本のワインのお礼、でもそのワインはゴラン高原産、とても受け取るわけにはいかないと、送り返したワインに添えられた手紙です。
 盗んではいけない、盗んだものから生じたものを受け取ってはならないと、教わってきたものだから、と。
 タイトルをクリックすると、ギリシア語の、続いて英語の手紙が現れます。

エミリー・ジャーシルがグッケンハイムで


 ニューヨーク在住のパレスチナ美術家、エミリー・ジャーシルがヒューゴ・ボス賞を受賞、グッケンハイム美術館で展覧会が開催されることになりました。2月6日から4月15日まで。残念ながら展示作品の画像はありません。

 2002年、彼女はパレスチナ人の移動の不可能性を現す[Where we come from]を制作しました。アメリカの国籍とパスポートを持つ彼女はラマッラとニューヨークを行き来しています。パレスチナ48、1948年以前のパレスチナ、今ではイスラエルと呼ばれる領域をも訪ねることができます。そこで彼女は、移動を阻まれる人びとに「あなたがパレスチナでしたいことを、変わってわたしがする」と、インターネットで呼びかけました。
-パレスチナの地にザクロを植えてきて
-ハイファのカルメル山に登ってそこから地中海を眺めて欲しい
-ハイファで、わたしがそこにいたなら過ごしたであろうごく普通の1日を過ごして
-デイル・ラファト村に行って木に水をやって
-電話で話したことのある東エルサレムの女の子とデートしてきて
-ナザレの街を歩いてきて
こんなのもありました。
-アラクを持ってきて
-母を訪ねてハグとキスを、これは僕からと言って、それから日没の頃海に行って匂いをかいで、それから少し歩いて、いや充分、僕って欲張り?
このリクエストをしたのは、「ジハド、ガザ市シャティ難民キャンプ生まれ、ラマッラ在住、ガザID、両親はアスドッド出身、1948年難民となる」とあります。
 作品は、エミリー・ジャーシルがリクエストに応えて行ったことの写真、あるいはヴィデオとテキストで構成され、テキストは、リクエスト、それができない理由、エミリーの記録、例えば、ジハドの母親が、ジハドにとお菓子を持たせた、といったような記録と、ジハドについて上述したような来歴で構成され、2枚1組のパネルが、多様なリクエストによって、「こんなことも出来ないの?」と思わせる仕掛けになっています。
 2001年末から、ヤセル・アラファトの大統領府に対するイスラエルの攻撃が始まり、ラマッラはイスラエル軍によって占拠されていましたから、この制作に関わった2002年春は、エミリーの移動さえ自由とは言いがたい状況で、例えばエリコは封鎖され行くことはできませんでした。

 画像は、グッケンハイム美術館に展示される作品に変えて、[Where we come from]シリーズから1点、ジハドのリクエスト、でもリクエストは「母に、僕からとハグとキス」だけになっています。

2009/02/02

ガザのためにわたしたちができる小さなこと-1

 アムネスティ・インターナショナル・アメリカが呼びかける、国際法に反する犯罪の責任を問う要望書への署名

ガザ動物園


 ガザ動物園の動物たちも殺されていました。
 イスラエルによるガザ侵攻以前は、1日1,000人の入場者が訪れたこの動物園は、2005年に、パレスチナ内外のNGOの協力のもと実現したものとか。パレスチナ人に「愉しみ」を与える動物もまた、イスラエルのいう「テロ」の加担者だったに相違ありません。なんという病根。

 ファトヒはこの動物園でライオンを見たに違いない、と思いました。90年代半ば、上野の東京都美術館で開催されたJAALA展の招待で、ガザからカイロ経由で来日したファトヒが、ライオンを見てみたいと言うので、上野動物園に行きましたが、その時、ライオンはいませんでした。

2009/02/01

モーセと一神教



 トトメス三世が、ガザ考古学館破壊のニュースにありましたから、よぎったのがこの本、『モーセと一神教』でした。ムセス、ムーサ、モーセ、いずれにせよ、mとsからなるこのことばはエジプト語で「子ども」を意味すると。だから、モーセがエジプト人だった可能性は捨てきれない、と、フロイトは書いています(あまりに昔に読んだので、うろ覚えとしても大きく違っていることはありません、多分)。
 
 例えばギリシア神話でも、子捨ての物語は多くあります。出自は王家、しかし拾われて貧しい農夫に育てられる、この場合、実際の出自は農夫、子捨ての物語は、力で得た王位を正当化するために付け加えられた物語だろう、とフロイトは考えます(確か)。モーセの場合、エジプトで奴隷だったユダヤ人として生まれ、王家に拾われて育つ、この設定は通常の子捨ての物語と逆ではないか、と。考えられるのは、モーセは王家の出自、子捨ての物語でユダヤ人の出自が付け加えられたのだろうというのです。
 フロイトの問いは「果たして神が民を選ぶだろうか」というもの。エジプトでアケナテン(アメンホテプ四世)の治世、一神教が信仰されました。アケナテンの死後もその信仰は陰で細々と続き、モーセはそのひとり、「神ではない、モーセがユダヤ人を選んだのだ、自分の信仰を受け継ぐ民として」とフロイトはつぶやきます。

 もうひとつ興味深かった父殺し(ユダヤ人によるモーセ殺し)の物語は、罪悪感が、ユダヤ教をかくも長く延命させたと、いっていたような、いえ、もう一度読んでみます。

ガザ考古学館の被害



 イスラエルによる22日間の攻撃で、ガザ考古学博物館も被害を免れることはできませんでした。
 ガザは、エジプトとレバントの交易の中心地、まだ発掘されていない遺跡も多く、その破壊が懸念されています。トトメス三世が記録されるガザへの最初の侵略者、とあります。

 古代エジプトのファラオは「神の子」を名のったようです。エジプト神話で、トトは朱鷺の頭と人体を持つ月神、メス、ムセス(例えばラムセスのように)、ムーサなど、古代エジプトでどのように発音されたか知るすべもありませんが、エジプト語では「子ども」を意味したそうです、トトメスは「月神の子」ということになります、たぶん。

マフムード・ダルウィーシュに捧げるグループ展


『パスポート』 偉大なるパレスチナ詩人マフムード・ダルウィーシュに捧ぐ
オープニング:2009年2月4日正午 ビルゼイト大学美術館
出品作家:モハマド・サレフ/ナビル・アナーニ/ラナ・ビシャーラ/ハーリド・ホーラニ/ラファト・アサド/ナーヘド・ダビート/ヴェラ・タマリ/イブラヒム・ヌーバニ/ムンジル・ジャワブレ/ハマデ・マダ/アイマン・ハラビー/ターリブ・ドゥエイク/イスマト・アサド/ファフド・ハラビー/ムハマド・アブシッティ